AIBA会員の観た海外事情

濱口


 

私は、幼い頃から外国での生活や外国人など、異文化に興味がありました。私が、最初に外国人を見たのは、1960年頃小学校の遠足で行った、神戸港に停泊していた外国船の乗組員でした。彼が、接岸していた船から、英語のコミック本や冷蔵庫に保管されていたと思われる冷たいリンゴを私たち小学生に投げてよこしてくれたのです。数に限りがあったのですが、私はコミック本とリンゴを持ち帰ることができました。うれしくて、同居していた明治生まれの祖父にその時の様子を話したら、「そんなもん持って帰ってきたら、病気になる」とえらく怒られ、リンゴは取り上げられました。リンゴが冷たかったことに驚いて食べるのを楽しみにしていたのに。

 その次の私の外国に関する記憶は、当時住んでいた家の近くの方が、某大手商社に勤めてて海外出張中に撮影されたエジプトの8ミリ映像でした。当時、海外出張に出る方など珍しく、エジプトのピラミッド近くに写るそのご近所のおっちゃんの姿は衝撃的でした。それから何十年の後に自分がエジプトに駐在することになるなど、その時は全く想像すらしていませんでした。

私が、初めて海外に駐在したのは、1983年9月から1986年10月までのエジプト、カイロでした。私がエジプトに赴任するまでには紆余曲折があったのですが、83年9月にカイロ空港に降り立ちました。当時、カイロに行くにはJALの南回り欧州行きが一般的なルートだったのですが、成田⇒バンコク⇒デリー⇒クウェート⇒カイロと各駅停車みたいに色んな所に寄港し所要時間は約22時間だったと記憶します。早朝に到着した時には、疲れ果てていましたが、空港を出ると、向かいのモスクからアザーンが聞こえてきて遠くまでやってきたと思ったものでした。

当時のエジプトはムバラク大統領が就任して2年目でした。彼は前任者のサダト氏の基本的な方針になっていた親米路線を継承しているといわれていましたが、エジプトでの生活は、日本の生活と全く異なるものでした。様々な食料品が配給制で、百貨店での買い物でも店員に申し出て初めて商品を見せていただけるような状態でした。仕事も大変でしたが、米や、肉を確保するのに時間を使っていました。外国人には、配給の日程など知らせられていなかったのですが、事務所の前の道路沿いに、政府の販売所を兼ねたJemaiyaがあり、そこに配給のトラックが止まると、事務所にいた人間は何が配給されるかわからないままに行列に並びました。行列は男の列と女の列があり、列に割り込まれないないように、前の人の肩に手を置いて並ぶのがルールでした。赴任してから2年後にやってきた家内は、食糧確保に大変な苦労をしました。当時の市場には冷蔵設備がなく、鶏肉は生きた鶏を買ってそれを捌いたものを持って帰っていました。家内は面白がって、買ってきた鶏肉の写真を撮って義母に送っていましたが、義母は家内が可哀想だと言って泣いていました。

その後、私と家内は、エジプトからフィリピン、そしてサウジアラビア、マレーシアと転勤を繰り返しました。2003年にいったん日本に戻ったものの、2004年から2009年までアラブ首長国連邦のドバイで単身赴任をしました。結局、27年を海外に駐在しましたが、その始まりがエジプトで、思い出深い場所になりました。