海外駐在の良かったこと、残念だったこと

鈴木 弘成


 

私の経験談は、他の皆さんとは変わっているかもしれませんが参考になればと思い、お伝えします。

私の銀行員時代の最初で最後の海外駐在はハワイでした1991年4月末に、Central Pacific Bank(ハワイの観光の中心地、ワイキキのハイアットリージェンシーホテルの1階、Waikiki Br.)に出向、1995年春まで単身赴任しました。事情を知らない人からはこの世の楽園に赴任とはなんと幸せか!と言われました。しかし実態はバブルの過剰貸出にかかる銀行内のとばっちりを受けて不本意ながら海外に放り出されたのでした。この駐在で良かったこと、残念だったことを総括してみようと思います。

 
良かったこと

  1. 体力増強が図れました。何といってもバブルで傷んだ心身の回復、リフレッシュ、体力増強が4年間で得た成果でした。その後の20数年間の勤務に耐えうる体力を付けられたのですから。6時に家を出て電車に乗って出勤、帰宅が10・11時の生活が大きく変わって8時に家を車で出てアロハシャツで勤務、そして18時・19時には退社する生活になり、かつ週末はゴルフとテニスに興じることができたのですから体に悪いはずがありません。おかげで人生のターニング・ポイントになりました。

  2. ワイキキの日系旅行社、ブランド店の信頼を得られたことは大きかったです。赴任した時は、日本のバブルがはじけた後で観光客の志向は大きく変化していたにもかかわらず、当時のブランド店はこれを理解せず苦戦していました。日系旅行社とは常に情報交換していたので(日本の情報は彼らが一番早かった)彼らの情報を基にブランド店マネジャーに日本人の安・近・短の旅行観の流れの変化をつたない英語で説明して回りました。この時、初めて「インバウンド」という言葉を知りました。日系旅行社とブランド店との友好のおかげで預金も増えました。エルメスの店長が餞別にくれたネクタイは今も記念にとってあります。

残念だったこと

  1. 支店のナンバー2が10年にわたって不正(詐欺横領)をしていたことを赴任3年目に知ったことが最大の悔いとして残っています。当時、赴任先銀行の勘定システムはオンラインの1つ前のバッチシステム(1日の締めのデータを本部に送って翌日元帳が支店に配信されるシステム)でしたが、その隙間をうまく利用して顧客間の資金操作をして預金の横領をしていたのです。本部の検査部も数年間見過ごしていたのがより増長させたものと思われます。この不正をあるお客様の指摘で調査、悪事を発見、解明しましたが、おかげで責任も取らされました。前任者の「あの人(部下)に任せておけば問題ない」は信じるな!の良い例でした。

  2. 日系人の駐在日本人に対する時折見せる屈託のある姿勢をなかなか理解できなかったこと。お金持ち、別荘持ち、駐在日本人VS故あってハワイに移住した人の心の“せめぎあい”は表面には出ないが重い雲のようでした。前述の事件も根底にこの屈託があったように思います。

  3. 阪神淡路大震災時に即刻家族(西宮市)と連絡が取れなかったことです。1995年1月17日当日、ランチョンミーティングに行く間際に、淡路島で大きな地震があったことを臨時ニュースで知りながら、家族に電話しなかったことが悔やまれます。ミーティング終了時に地震が途方もない大規模なものであることを知り、様々な方法で家族に連絡を取ろうとしましたが全くつながらず、やっと夜中の12時(日本時間午後7時)に無事を確認できました。以来家族からは肝心な時に「そばにいなかった(連絡が取れなかった)」と恨まれています。