商社マンとして

持田


 

小学生時代、社会科教科書で紹介された「世界の七不思議」を見て私は好奇心を掻き立てられました。 “グランドキャニオン”、“マチュピチュ”、“ナスカの地上絵”、“ピサの斜塔”、“万里の長城”、“ギザのピラミッド”など日本では考えられない雄大な自然や巨大な建築物をこの目で見たい…と子供心に強く思いました。

その当時は未だ海外旅行は一般的ではなく欧米に旅行した人達を“洋行帰り”と称するほど海外旅行は特別なものでした。 高校時代から“海外市場を股に掛けて仕事をしたい”との思いが膨らみ大学卒業と同時に商社に入社。 自分勝手に「将来はアメリカ駐在」と決め付けていた。 商社と言っても“国内部門もあり、また海外赴任先も欧州・中国・中東・東南アジアなどがあり、仮に海外駐在となってもどの国に配属されるか分からぬ中、アメリカ駐在は半ば既定事実の様に妄信し商社マンとしての社会人のスタートラインに立った。

幸いな事に希望通りアメリカ市場を担当する輸出部門に配属となり、その後世界を股に掛けるビジネスマン生活が始まった。

 

初めての海外出張はアメリカ・カナダ。 当時日本には“外貨持出し制限”があり、40日の

海外出張費用として支給された外貨は僅かUSD300(日本円で10万円超)、上司からは米国現地法人で「必要な外貨が渡されるから心配するな…」と告げられニューヨークに出発した。

一回目の駐在地はニューヨーク。 ケネディ空港からマンハッタンに向かう車中からみた

マンハッタンは将に“摩天楼”、ニューヨークに着任したという実感が沸いた。

着任した1976年、アメリカは建国200年祭に沸きN.Y.州とN.J州に跨るGeorge Washington Bridgeには巨大な星条旗が掲げられ、200年を記念する“2ドル紙幣”が流通していた。

ニューヨークでは商才に長けたユダヤ人相手に丁々発止の商談に明け暮れた。 

シェークスピア「ベニスの商人」でユダヤ人は“銭が全て、血も涙も…”となっているが

親交を深めると中々人情深いユダヤ商人が多く、息の長い付き合いとなった。

ご存じの様に新しいビジネスモデルはアメリカ発祥が多く、70年代で既に“Off-Shore Buz”

として日本品(原料)を香港で加工した最終製品を米国に輸入・販売する新しいビジネスモデルが始まり面白い程 商権を拡大した。 

このOff-Shore Buzの商流構築の為中国(上海)に足を踏み入れたのが中国との縁の始まり。 当時の上海空港は文字通り「掘っ立て小屋」これが国際空港?とビックリするほど粗末な建物、空港から街中に入る道は薄暗く、又新日鉄が技術援助した宝山製鉄所が稼働すると街中が停電する…そんな時代でした。

 

社会人としてニューヨーク駐在 2回/11年、そして青島(中国)に3年駐在。

駐在地への輸入・販売の他、商社機能を発揮した開発型ビジネスモデルを創造・構築する中で取引した国・地域は40か国を超え、正に青春時代に夢みた「世界を股に掛けた商社マン人生」を送った。

生涯マイレージは百万哩(地球40週)を超え、その間前出の世界の7不思議の内6不思議は踏破し、残るはナスカの地上絵のみ。 真冬のアラスカ上空でみた美しいオーロラ鑑賞など趣味と実益を兼ねた余禄の多い商社マン人生を過ごした。

 

「アメリカから見る日本」は「日本人が持つ日本観」とは全く違う…と一回目のアメリカ駐在で実感した。 物事全て二面性あり何事も双方向から見なければいけないと学んだ。

貿易アドバイザーとしての事業者サポートにも、二面性を客観的分析・消化した情報提供に徹し事業者の海外進出サポートを今後とも続けて行きたいと思います。