初めての海外生活、駐在は?
初田 安弘
■はじめに
初めて私が海外赴任した国はインドネシアだった。 1992年3月から長期出張を始め、翌年3月、ジャカルタ駐在員事務所勤務となった。 フットウエア生産補完先視察のために生産部長に同行し出張に行ったわけだが、その旅先で「インドネシア赴任や!」の部長の一言が私の生産諸国転戦?の始まりだった。 社内で未だ海外駐在員が少ない時代、30代前半での赴任となり、正直、浮ついて地に足が付いていなかったと今振返ると思う。
■事務所づくり
1980年代後半、人件費高騰等の理由で台湾、韓国での生産に陰りが見え、1990年に入ると台湾企業は中国へ、韓国企業はインドネシアへ生産拠点を移し始めた。
当時、本社は中国に目が向かい、生産を拡大する計画を立てる、一方、イスラム教徒が大半を占めるインドネシアを強化する方針は無かった。 ところが米国販売会社が独自に工場を探し、委託生産を始めた為、本社として放任は出来ず、後追いで現地の生産管理業務を担うという複雑な経緯があった。 そして人を派遣し、生産管理活動を行う為に、駐在員事務所設立準備を進めた。
その頃は時間の流れは比較的ゆるやかで、情報も今ほど豊富でオープンでは無かった。
設立準備に際して会計事務所から手順書などに沿った説明はなく、その都度、問合せ、確認しながら進めていく要領だったので、設立に1年近くを要した。
■しんがりの役目、そして撤退
そのような背景で進出したインドネシアだったので、目的が不明確で準備や計画も不十分だった。 おまけに日本人社員の殆どが海外駐在は初めてだったので、工場品質管理業務に関して経験不足で、問題に対する処理も後手となった。
そして様々な悪条件が重なり、米国向け商品に大きな不良問題が発生し、米国で修理や代替品の生産等で多額の損失を出した。 さらに悪いことにインドネシア生産を維持するオーダー数量が不足となったため、もう一社の工場から受託を断られ、取引中止へ向かった。 取引を始めるときと違って、終わるときの相手の冷たさ・非協力的態度―勿論、全部では無いが-をこの時、身に染みて感じた。
そして1995年に入り、日本人社員が1人ずつ順に帰国し、ナショナルスタッフの解雇や新しい勤め先を紹介し、最後に5月、私が帰任し、インドネシアからの撤退を終えた。
■生活について
当初、私生活でも苦労した。 一般の現地の人は英語が分からず、買物や電話代などの支払いはインドネシア語を使わなければならなく、必要な言葉を必死になって覚えた。 私が赴任して1年後に妻と1歳になったばかりの息子がジャカルタに着いた。 〇△×を払ってスカルノハッタ空港内入国管理まで出迎えたときのことを今でもはっきりと記憶している。 当時、市内は未だ治安は良くない状態で、実際、ラマダン中、車で信号待ちしているときに両側からドアミラーをもぎ取られたことや自宅駐車場で車のホイルを4つとも盗まれたことがあった。 移動は車でdoor to doorが基本で、社有車を1週間の内2回、限られた時間にしか家庭用に使えなかったので、家族にかなり不自由をさせ、苦労を掛けてしまった。 ある日、妻と息子が社有車なしで、バジャイ(バイク仕様の三輪車)に乗って買物に出かけたと聞いたときは驚き半分、凄いと思った。
最後にインドネシアでの生活は不便な事が多かった半面、言葉が通じにくい現地の人とも仲良くなり、彼らの親切、温かさにとても感謝している。