初めての海外生活、駐在は?
入江 史浩
えっ!駐在?サウジ?
1981年4月入社の家電メーカーで、待望の海外部門に配属されました。もちろん右も左もわからず最初はアジアと大洋州を担当するグループで、出荷や現地のPSI集計の仕事に就きました。翌年、中近東・アフリカグループに代わりますが、当時、主要国サウジアラビアは全日本集荷統計(日本生産全盛時代)の上位国でありながら、本社も市場のことがつかめないでいました。誰かを送り込んで調査させよ!となったのでしょう。1984年11月、結婚して1年目の私はサウジ・ジェッダ駐在事務所に赴任しました。
市場調査
駐在前に、丸1か月にわたりシリア人の先生に就いてマンツーマンでアラビア語の特訓を受けました。覚えの悪い生徒でしたが、後の4年に及ぶジェッダでの生活では大変に役に立ちました。駐在後は、ともかく市場のことを報告するため、ほとんど事務所には行かず、家電販売店の集中する地域に文字通りへばりついて、売れるカテゴリーや商品、好まれるテイスト、売れる時期、ブランド、そして価格などを調べまくりました。販売店とお客との会話の中で、家族のだれが商品の決定権を持っているかとか、お客とどんな交渉(会話)をするかなど、アラビア単語を組みあわせて解読しました。こうして提案した商品開発が採用されたときのうれしかったこと!
代理店との交渉
駐在事務所はサウジアラビアの代理店の一室にありました。代理店とは、商品政策、販売網構築、人事政策など、若いのにたくさんの経験をする機会に恵まれました。代理店での交渉相手はタフなヨルダン人。権力が彼に集中しているので、私の番が来るまでじっと彼のデスクの前で待ってなくてはなりません。やっと順番が来たら、お祈りの時間で中断です。こうしてやっと交渉が終わり夜遅くまで事務所で仕事をしておりましたら、治安維持警官が事務所に入ってきて、アラビア語でなんか言っています。身振り手振りで分かったことは、早く家に帰って寝ろ!というものでした。当時事務所はハッジに訪れる巡礼客の宿泊施設も近く、何かのスパイ行為をしていると思われたようです。それ以来、勤務が遅くなると、テレックスのテープを事務所で作り、送信(これの時間がまた、かかるのです!)は事務所から離れたところにあるハイヤットホテルから行うようにしました。
プラザ合意
サウジ駐在二年目の1985年は、9月にあのプラザ合意が行われた年です。急激な円高が進展しました。昔も今も、サウジアラビア向け最大の家電品目の一つにエアコンがあげられます。当時、アメリカのエアコンメーカーが3社現地に工場を持ち、加えてこの円高対策として日系も現地生産のFSを始めていました。私も、そのころFSという言葉を初めて知るとともに、熱意を込めてサウジアラビアでの工場展開の必要性を本社報告しました。とても稚拙で、お恥ずかしい内容!結局、会社は円高対策として日本での生産を東南アジアにシフトしていくことになります。
禁酒国
禁酒国ゆえの楽しみもありました。自家製ワインです。当時アテネに統括事務所があったのですが、オリンピック航空でいただける滅多に飲めないビールのうまかったこと!
帰国
ソウル五輪の11月、全力で突っ走った最初の駐在を終えて帰国しました。そして翌1989年1月に昭和天皇が崩御され昭和も終わりました。甘酸っぱい思いのあるまさに青春といえる初めての駐在でした。